いつからだろう、私が「自分」をなくしてしまったのは。
 かの人を待って待って、待ち続けて。

 そんな私を救い出してくれたのは、貴方の音でございました。

月下の調べ 花の朝

 街道はこの先二つに分かれる。
 片方は今まで歩いてきた本街道で、平野を抜けていく。もう片方はここから新たに始まる道。山間を抜けて北の海へ出る。
 山を抜ける道はかなりの難所もあるためなのか、いつの頃からかここは旅人達が骨休めをし、装備を調えるための宿場として発達した。定住しているのは、旅人を相手に商売をしている者がほとんどだ。

 楽は、土地が変われば変わるもの。
 どんな場所にも特有の調べが待っている。
 故に。彼は定住しない。様々な土地を放浪して、いろいろな音楽に触れて。そして彼独自の音を作り上げてきた。求めるのは未だ知らぬ音。
 ――さて、どちらへ進もうか。
 どちらも行ったことのない土地にたどり着く道だ。特に目的地のない旅なのだから、どこへ行っても良いのだが。

 だから。そう、この街にしばらく逗留するというのもひとつの選択肢。
 旅の楽師としてどこかの酒場にでも雇ってもらえば、その日を暮らすのに困らないだけのものは十分手に入る。
 この街の栄えようならば、もっと割のいい仕事もあるだろうし、彼の名がここまで伝わっているのなら、諸手をあげて歓迎してもらえるだろう。

「兄さん、楽師さんかい? どうだい、うちで仕事をしないか?」
 間の良いことに。宿の客引きをしていたのであろう男が声をかけてきた。
「ああ、そうだが、私を雇おうというのなら、高いぞ?」

   ◇◆◇

「楽師の東雲? おい、確かにそう名乗ったのか?」
 旅の楽師を見つけたという知らせを聞いて、宿の主人は、帳簿をつける手を止めてそう聞き返した。
「はあ、確かに」
「どんな男だった?」
 身を乗り出して聞いてきた主人の様子に、半ば驚きながら答える。
「旅慣れた感じの……、歳は三十にはいってないでしょうが。三味線のような包みを抱えてました」
「そいつは、胡弓だ。……お前、お手柄かもしれないぞ」
 旅の楽師、東雲。大陸渡りの楽器、胡弓を奏する男。若い頃に大陸にわたって胡弓の演奏を身につけ、この国へ帰ってきてからは、さすらいの日々を続けている。高貴な御方の御座敷で楽を奏でることもあれば、庶民の祭りに混じって謡の伴奏をすることもある。
 噂は、遠くこの地まで届いている。
 どの部屋へ通したかを尋ねると、主人は東雲に会いに出ていった。
 暁亭に逗留している楽師が、ずいぶんと腕の良い人らしい。そんな噂が街に流れるまでに数日とかからなかった。

   ◇◆◇

 ここは、なかなか良い街だと思う。数日をこの街で過ごして東雲はそう判断した。都からはかなり離れているが、街道を旅する者が都での流行を伝えるのだろう。趣味の良い者を好む人も多い。
 噂に敏感な、旅籠の店主は、東雲の名を聞いてすぐに気がついた。自分の名がこの地まで伝わっていたおかげで、東雲はこの街で一番の宿「暁亭」にの個室をとり、街に逗留することになった。
 最初の晩には、暁亭の主人や近くの店の主人達の前で楽を奏でた。翌日から早速各店からのお呼びがあった。以降、旅の商人や官人の酒宴で楽を奏でたり、舞妓と共に御座敷に呼ばれたり。昼は昼で街角の子供のために楽を奏でたりする。
 通りを歩けば、誰かしらが挨拶をよこす。
 東雲は、到着後数日のうちに街のちょっとした人気者になった。

「あ、東雲さんだ!」
 昼下がりの街をゆっくりと歩いていると、二日ばかり前に馴染みになった子供が駆け寄ってきた。
「やあ、今日はこのあたりで遊んでいたの?」
「そうだよ。ねえ、また都の歌を聴かせてっ」
 まわりにいた子供達も集まってくる。都の歌を聴かせて、都のお話をして。
「ほらほら、こんな往来の真ん中では邪魔になってしまうからね。さて、どこか、ゆっくりお話のできる場所はあるかい?」
 まとわりつく子供達をなだめると「こっち」と両手を引っ張られ、広くなった場所へ連れて行かれる。住民が共同で使う洗い場があり、ちょっとした広場になっている。この時刻なら、夕餉の支度を始めるには早く、そう邪魔にはならないだろう。
「さあ、始めるよ。静かに聞いておいで」
 愛用の胡弓の調子を合わせると、東雲は静かに楽を奏で始めた。

   ◇◆◇

 夕暮れ時の柔らかな光が、障子越しに感じられる。
「今ここに逗留している楽師の東雲というのが、ずいぶんと良い腕だそうだな」
 暁亭の一室にて。酒のつがれた盃を手にしたまま、男は言った。
 豪奢な装飾の部屋だった。豪奢ではあるが調度の品はよく、ただ派手なだけではない。暁亭で一番の部屋であった。
「都でも評判のようでございます」
 座敷の隅に控えていた別の男が答える。彼は、宴の席に呼ばれた女の店の主人である。常ならば自分の店の座敷で客を取るが、客である男の身分を考慮し、女を連れて暁亭に伺候していた。
「ならば、どうだ、咲良の舞にあわせて楽を奏でさせたくはならんか」
 銚子を持ったまま隣に控える女、咲良に視線を送って男が言う。
「咲良に、でございますか?」
「ああ。この街一の舞手と都でも評判の楽師。なかなかの見物ではないか」
「しかし、今の咲良に、楽にあわせて舞うことができるでありましょうか」
 咲良は黙って控えるままだ。表情さえ動きはしない。彼女は、ほとんど声を発するということをしない。それは彼女自身の心の問題だと誰もが知っていたが、咲良は以前と同じように宴の席にも出るし。心ここにあらずというわけでもなく、言葉も理解しているが、自分の意志を見せることをほとんどしない。そんな咲良でも宴の席に呼びたいという客は多い。静かな舞ではあるが、彼女の舞は見事であった。
「やらせてみねばわからぬではないか」
 上座に座る男――この地方を束ねる大地主であり、暁亭にとっても、咲良の店、湖水楼にとっても、常連であり上客である――は酒を飲み干し、咲良の前に杯を差し出した。
「咲良、酒だ」
 命じられれば、咲良は静かに銚子を傾けて酒を注ぐ。滑らかなその所作は音一つたてない。
「まあよいわ、どうせ座興だ。明日にでも呼んでみろ。それより」
 近くに寄れ、と主人を招き、膝行してきた主人をもっとそばに寄れとすぐ近くまで呼び寄せて。男は問いかけた。
「おまえ、咲良をこの先どうするつもりだ?」
「旦那様、そのお話は、ここでは……」
 咲良の方をちらりと見て、主人は口ごもる。咲良の前ではこれ以上話したくない、その意志をみてとって、男は咲良に命じる。
「咲良、今日はもう下がって良いぞ、ご苦労であったな、気をつけて帰るように」
 先に帰って良いぞと言うその言葉に、咲良は銚子を置くと、一礼をし、衣擦れの音も静かに部屋を出ていく。廊下に控えていた女が静かに従うのを見送って、男が話を続ける。
「あのままでは、他の女達と同じように勤めさせることもできないであろう?」
 ならば、どうだ。私のところへ咲良をよこさないか。

   ◇◆◇

 宴の席を辞した咲良は、付き添いの女性を一人従えただけで、ゆっくりと通りを歩いていた。
 日は暮れて、東の空には月。
 こうして咲良が街中を歩くのは珍しいことだが、街中は治安も良く、まだ時刻も早いこともあり、危険はない。街では知らぬ者はないほどに咲良は有名であったが、その故に気軽に声をかける者もいなかった。
 仮に言葉をかける者がいたとしても、それに咲良が応えることなどあり得ないと言うことも皆がわかっている。

 不意に。咲良は足を止めた。
「咲良様?」
 足を止めるなど、今の咲良には珍しいこと。付き従ってきた女性が、控えめに声をかける。
 楽が聞こえる。
 咲良が視線を動かしたその先に。見慣れぬ楽器を奏する男の姿があった。
 今、噂の旅の楽師なのだと女性は思い至る。
 一曲奏で終わった楽師が、まわりに集まった子供達に何事か話している。声はここまで届かないがその穏やかそうな様子は見て取ることができた。
「あれは、都の楽ね」
 誰に呟くわけでもなく、咲良が言葉を発した。
「都の楽、あの方が教えてくださった曲」
 でも、あれは、違う人ね。あの方とは、違う。
「咲良様……?」
 常と違う、いや、もともとの咲良は決して言葉数の少なすぎる女性ではなかったが、最近の咲良が自発的に言葉を発することなどはほとんどなく。
 思わず、いぶかしげな視線を送ってしまった女性を、一度振り返ると。
 何も言わずに、咲良は再び、ゆるりと歩き出した。


「あ」
 楽を聞いていた子供の一人が声を発した。
 それまで静かに、言葉一つ発することもなく聞いていた子供達だったのに、どうしたことか。
 曲の区切りで演奏をやめた東雲は、言葉を発した子供に問いかける。
「どうした?」
「あそこ」
 子供が通りの方を指さす。
「咲良様がいるよ」
 ほんとだ、咲良様だ。きれーい。 
 指さされた方向を見て子供達が次々に続ける。
「さくら、さま?」
「うん、あの人。とてもきれいな人でしょう?」
 湖水楼の一の御方なのだと、年かさの少女が教えてくれた。
 東雲がじっと目をこらして彼女の姿を認めたとき、咲良は再び歩き出し、通りを去っていった。
「東雲様、今にきっと咲良様のお座敷に呼ばれるよ。咲良様の舞はすごいんだ」
「そう。ずいぶん、きれいなお人だね」
 遠目でしか見えなかったが、ずいぶんと美しく、そして儚げであると、東雲は思った。

2004/05/20 LIBRALY 1へ次へ

後半に続きます。

clap_mini.gif(219 byte)
読んだしるしに、クリックしていただけたら、嬉しいです♪